山野浩一 Webサイト yamanoweb.com


■Nov.27th,1939■
大阪市港区八幡屋町で3人兄弟の次男として生まれる。父巖は和泉の出身。その祖先は江戸時代に九州の山野金山から住吉村への開拓入植したそうで、その遙か祖先は藤原家から山野金山の開拓に派遣され、その時に山野姓を名乗ったという。山野姓で「丸に三つ柏」の紋章は多いけど、それらはほぼ同族だろうと思われる。父は几帳面な性格だがセンチメンタリックな面が強く、大倉商業在学中に父親を失い、7人兄弟の次男として弟妹を養うために就職したという。父は中退当時の通信簿を大事に残していたが、確かにそれは優ばかりだった。今なら東大へ入って官僚になったタイプだろう。むろん、こうした父を嫌い、ずっとそれに対する反発によって山野浩一は自己形成をしている。母静子は旧姓森村。紀州の殿様に仕えた侍の子孫で、典型的なお嬢さまだった。嫁入りの持参金として長屋を一棟持ってきたが、父が後の事業で食いつぶしている。父母は浩一が生まれてまもなく母の姉の家に近い阿倍野区昭和町に転居した。

■1943■
昭和町で初の米軍による空爆を経験する。最後かも知れないというので、とっておきのチョコレートを食べたが、それだけはしっかり覚えていて、今に至るまでチョコレートが大好きである。1年早く文の里幼稚園に入園したが、数日で母の親戚を頼って和歌山県紀ノ川に疎開した。疎開地でも何度も空爆を受けたが、焼夷弾の落下が花火のように美しく、丘の上で見惚れていて母に大目玉を食った。

■Apr.1st,1946■
昭和町に戻り、市立北田辺小学校に入学。筒井康隆さんはとなりの南田辺小学校にいたようだ。後には向かいに谷沢ベニヤというベニヤ板の問屋ができたが、それが谷沢永一さんの実家だった。谷沢ベニヤの若い衆とはよく遊んだが、永一さんとは今もって面識がない。

■Apr.1st,1952■
市立昭和中学校に入学。この頃は平凡な生徒だったように思う。さほどの記憶もなく、学校の成績も中ぐらいだった。

■Apr.1st, 1955■
府立住吉高校に進学。当時の住吉高校は中学でクラス3番目ぐらいしか入れないようなところだったけれど、なぜか真ん中ぐらいの成績でパスした。中学へは内申書の成績があまりに悪いので問い合わせがあったそうだが、勉強をしないので成績は悪いけど、試験は通るとみていて受験させたようだった。それによって本番に強いという自覚ができて、ますます勉強をしなくなった。住吉高校は住吉中学時代から庄野潤三、坂田寛夫など多くの文学者を送り出している学校で、眉村卓さん、堺屋太一さんも先輩になるが、むろん知り合ったのはずっと後である。高校では図書委員を務めていて、この頃ヘミングウェイ、カミユ、ドストエフスキーなど多くの文学作品に接するが、特に傾倒した作家がいるわけでもなかった。高校では不良少年の一人でもあったようだ。

■1957■
初めて原稿料をもらったのはスポーツニッポン紙(だったと思う)の私の映画評という欄への応募によってで、ジョン・フォードの「ミスターロバーツ」の批評だった。

■Mar.14th,1958■
大阪大学を受験して落ちる。実は勉強をしなくなってから英語を習ったもので、英語に関しては文法も、基礎的な単語もほとんど知らないままここまで来てしまい、いかに本番に強いといっても、こればかりは試験場で考えてもできるはずのものではなかった。国立大学では各科の最低点制度があって、他の学科がいかにできても、一つでも20点以下の科目があると落ちる仕組みになっていた。したがって最初から阪大には通る可能性が全くなかった。2次にはもっと易しい和山大学を受験したが、当然こちらも落っこちた。

■Feb.15th,1959■
関西学院大学法学部に補欠で入学。関学は合計点で合格者を決めるし、私立では比較的科目も多いので、英語の得点が0でもなんとか入学できたようだ。数学は帰り配られる予備校による模範解答と一字一句違わなかったので間違いなく満点だったと思う。入学後すぐに映画研究部に入る。近畿圏以外からは入学できないので、関西学院は全国的に知られていないが、当時全国一の授業料の高さを誇っていたおぼっちゃん学校で、阪神競馬場のすぐ近くにあり、学生の多くは競馬好きだった。志摩直人、杉本清など競馬関係に関学出身が多いのはその2つの条件によるもので、むろん山野浩一もこの時期に競馬場へ頻繁に通うようになった。その年の宝塚記念をコダマが勝った。金持ち学校なので友人に馬主の息子も多く、この頃から馬主席で競馬を観ることも少なくなかった。1年生なので安保闘争には遅れてきた青年だった。

■1960■
映画研究部ではたちまちヘゲモニーを奪取し、3年生が制作する自主作品を2年生で脚本、監督する。「デルタ」という作品は20歳時の最初の重要な創作活動となった。この頃、フロイド、サルトルなど当時の学生に人気の高かった著作に接している。ゴタール、大島渚さんなどが活躍していたヌーベルヴァーグ全盛期で学生映画の全盛期でもあった。当時は学生映画の全国組織があり、そこで足立正生さんなどと知り合い、「デルタ」のテレビ放映のゲスト出演した寺山修司さんとも知り合う。この頃大学新聞や「映画評論」「映画芸術」「週間読書新聞」などにいくつかの評論を書いている。

■1962■
大学を中退して、関西映画というコマーシャル映画のプロダクションで1年間映画の現場での勉強をした。それなりに社会を知る機会になった。

■1963■
放送作家協会のシナリオ学校へ行くという名目で東京にアパートを借りて、毎日、寺山修司さんや足立正生さんと議論をして過ごす。足立さんは日大映画研究部の卒業生を中心としたヴァン・プロダクションというところで共同生活をしていたが、そこに赤瀬川原平さん、オノ・ヨーコさんなども出入りしているとても魅力的な場所で、寺山さんもそこで最初の映画を制作していた。この頃、岩波映画で伊勢長之介さんというPR映画の名手の助監督をした。同世代の嵐山光三郎さんや唐十郎さんともよく遊んだ(議論していた)。

■1964■
寺山修司さんに映画なんか簡単につくれるものではないから、小説か戯曲を書いたらどうかといわれ、およそ1週間で戯曲「受付の靴下」と小説「X電車で行こう」を書き上げる。寺山さんはとても面白いといって、すぐに茨木憲さんに電話してくれたが、茨木さんも気にいってくれて「悲劇喜劇」誌に掲載されて処女作となった。小説の方は寺山さんにもコネクションがなく、これはSFというものだから、SFの同人誌に載せれば良いといい「宇宙塵」という雑誌があるそうだといわれた。そこで「宇宙塵」に送ると、柴野拓美さんに大変評価をうけて、3ヶ月に渡って掲載された。1回目の掲載で三島由紀夫さんが面白いと、柴野さんに葉書を寄せて下さったそうで、中原弓彦(小林信彦)さんが「朝日新聞」にそれを紹介し、星新一さん、石川喬司さんの推薦で「SFマガジン」に転載された。当時寺山修司さんと中原弓彦さんは篠田正浩さん監督の「乾いた湖」(寺山さんの脚本)をめぐって大喧嘩していた。後に「X電車で行こう」を単行本とする時には星新一さんと、安部公房さんの推薦文をいただいたが、デビューにあたっては当時の文化人の多数に全会一致のような支持を受けている。そしてこの華やかなデビューが後の山野浩一にずっと高みに生息することを運命づけ、大衆性を失わせる理由となったようだ。

■1965■
「SFマガジン」に第2作「首狩り」を送ったが、福島正実編集長には受け入れられず、しかし副編集長の森優さんはずっとこの作品を引き出しの中にしまい込んでいて、後に編集長となったときに掲載してくれた。寺山修司さんの紹介で「宇宙塵」に掲載した作品を中心とした処女短編集「X電車で行こう」を新書館から出版。山の上ホテルでの記念会は後の日本赤軍幹部としてPFLPと共闘している足立正生さんが司会した。この席で日本中央競馬会の宇佐見恒夫さんと知り合い「優駿」に原稿を書くようになる。競馬ライターとしてのデビューは「競馬必敗法」というアイロニーだった。この頃一度目の結婚。

■1966■
「日本読書新聞」は当時のラディカルな学生の機関紙的な存在となっていたが、そこに「SF時評」を連載するようになり、日本SFに対する批判を開始する。小説は認めてもらえなかったが、評論は福島正実さんに評価され、「日本SFの原点と指向」という評論を「SFマガジン」に掲載。これは当時ようやく形成されてきた日本のSF界に大きな波紋を呼んだ。30年も後になってもこの評論はそれなりの意味を持っていたのか、世界的なSF論客として知られるダルコ・スービンさんによって英語・中国語で世界に紹介されている。

■1967■
日本で最初にSFが普及したのは手塚治虫さんの「鉄腕アトム」のブームに始まるTVアニメーションの分野で、「鉄腕アトム」は常時40%台の視聴率を稼ぎ出し、当時まだ二流TV局だったフジテレビをTBS、日本テレビに次ぐ存在にのし上げていた。各テレビ局は競ってSFアニメの制作に乗り出し、ようやく本格的な創作活動を始めたばかりの第1世代SF作家のほとんどはそうしたTVアニメの原作や脚本を手がけている。硬質な作風からは最も不向きと思われる山野浩一だが、持ち前の器用さから、この分野でもかなりの売れっ子となり、手塚治虫さん原作の「ビックX」(TBS)と、自身の原作による「戦え、オスパー」(日本テレビ)の脚本の半分近くを担当した他、「鉄腕アトム」、「怪獣ブースカ」(実写)、「こがね丸」(人形劇)など、さまざまなTV作品の脚本を書きまくっている。「戦え、オスパー」のアシスタント・プロデューサーは後に「太陽に吠えろ」「傷だらけの天使」「拝啓おふくろ様」などによってNTVドラマの黄金時代を築き上げた清水欣也さんで、その後もずっと親友として交際を続けており、「季刊NW−SF」には清水欣也さんの小説が連載されてきた。この頃、少年雑誌もSFブームを迎えており、平井和正さんによる「8マン」の成功によって、原作付き劇画でもSF作家の需要が高くなって、「少年マガジン」「少年キング」などにいくつかの劇画原作を書いたが、こちらはさほど成功しなかった。

■1968■
この頃、競馬関係では「優駿」誌に時々原稿を書く程度だったが、夕刊紙「東京スポーツ」で血統を紹介するコラムを依頼され、週一回のコラムを書くようになった。題名は「必勝馬券のつかみ方」というおぞましいもので、このタイトルでどんな内容でもかまわないといわれたので引き受けた。また、東京スポーツ社からは「競馬パズル」という単行本の依頼も受け、こちらも気軽に書き上げたが、この本はかなり売れたようだ。そのように次々と仕事っぽいことを続けていて、前衛小説の作家にしては最初からそこそこの収入には苦労していない。森優編集長になってからは「SFマガジン」にも次々と作品を書くようになり、半村良さん、新巻義雄さんとともに「SFマガジン」を支える3本柱と呼ばれるようになった。「SFマガジン」には人気カウンターという読者投票のコラムがあり、月々のベスト作品が選ばれていたが、どうにも大衆性に欠くという自覚から、何とかベストを取ろうと「マインドウインド」という平易な作品を書いたところ、やはり1位を獲得することができた。後に筒井康隆さんが「山野浩一はこういう作品を書くべきではない」と批評してくれたが、さすがというべきでしょうね。この頃「宝島」「話の特集」「月刊プレイボーイ」「流動」「黒い手帳」などさまざまな雑誌に多くの作品や評論を書いている。

■1969■
第2短編集「鳥はいまどこを飛ぶか」(早川SFシリーズ)が出版され、「季刊NW−SF」(実際には年に1、2回出る程度)を創刊してSFのニューウエーヴ運動を展開するようになる。「季刊NW−SF」の第1号はJ・G・バラードさんの評論「内宇宙への道はどれか」(伊藤典夫訳)が大きな話題を呼び、たちまちSF界に大きな波紋を広げることになった。「季刊NW−SF」には種村季弘さん、別役実さん、三木卓さん、中井英夫さん、塚本邦夫さん、黒井千次さん、平岡正明さん、須永朝彦さん、諏訪優さん、中村宏さん、半村良さん、河野典生さん、石川喬司さん、松岡正剛さん、佐野美津男さん、大久保そりやさん、田中隆一さんなどさまざまな分野の作家、評論家から原稿を寄せていただき、まださほど知られていなかった時代の嵐山光三郎さん、川本三郎さんなどの作品も掲載されている。また、定期的に開催されていたNW−SFワークショップに集まったメンバーや若手寄稿家には鏡明さん、荒俣宏さん、川又千秋さん、森下一仁さん、亀和田武さん、新戸正明さん、永田弘太郎さん、志賀隆夫さん、高橋良平さん、野阿梓さん、沼野充義さん、山形浩生さん、大和田始さん、野口幸雄さん、増田まもるさん、水鏡子さん、大野万紀さん、米村秀雄さん、安田均さんなど、現在の一線級作家、評論家、翻訳家が名を連ねている。編集を手がけてきた山田和子さんも翻訳と評論で大活躍し、終刊間際に山田和子さんとともに編集を担当するようになった川上弘美さんは後に芥川賞を受賞している。確かに「季刊NW−SF」は日本文学史に大きな足跡を残したといえるだろう。競馬関係では「日刊スポーツ」に「血統入門「」を連載し、後に「名馬の血統」として単行本にまとめられる。また、競馬ブック社と週刊誌の専属契約を結び、「週刊競馬ブック」でもファミリーテーブルと名馬物語の連載を始める。

山野浩一30代のクロニクル(2005/04/17 revised)

■1970■
各大学の全共闘が崩壊してセクト化していく中で、NW−SFにはノンセクトの若者たちが集まって、反体制文化活動の砦としてスタートしている。一方でSFは高度経成長の波に乗った未来ブームとともに大繁栄し、この年には小松左京さんを中心とした一大イヴェントとして「世界SFシンポジウム」が開催された。むろん山野浩一は反対の立場をとっていたが、森優さんや伊藤典夫さんに取りなされて、開会パーティと、東京でのシンポジウムには出席した。小松さんや事務局長の大伴昌司さんがとても気を使って下さったのを覚えている。パーティでカナダの新左翼というべきジュディス・メリルさんから評論の寄稿を受けたが、その評論は「季刊NW−SF」連載後に「SFとは何か」の題で晶文社から出版され、日本で最初の長編SF評論出版となった。「日本読書新聞」は長い組合闘争の後に崩壊し、大手出版社系の「読書人」が出版界を代表する存在なって、「SF時評」も「読書人」に移り、この後もおよそ10年間ほど継続することになる。この間に日本で出版されたSF、幻想小説、前衛小説などは全て読み、数千冊の作品に対する批評を書いた。

■1971■
この年に宮城昌康さんが編集する「競馬研究」誌で前年度の中央競馬出走馬を対象とした最初のフリーハンデを作成した。翌年からは掲載誌を「競馬ブック」に移し、4年目からは地方競馬を加え、のちにJPNクラシフィケーションが発足するまで日本唯一のフリーハンデとして継続する。これはサラブレッドの血統紹介、名馬物語に続く、山野の日本競馬における3つ目の重要な仕事となっている。明文社から出版された「名馬の血統」はなかなかの売れ行きで、種牡馬系統と現役種牡馬についての記述を書き加え、ハードカバーによる改訂版を刊行した。これはその後も3年に1度改定されて10数年間出版され続けた。「優駿」誌にはクラシック勝ち馬の故郷や新種牡馬レヴューなどをほぼ定期的に書き、競馬関係の仕事も非常に多くなっていた。もう少し前だったと思うが「日刊競馬」誌でのコラム「血が駈ける」もスタートしており、これも現在まで継続している。むろん小説もこの時期に最も多く書き、評論活動の面でも多くの雑誌に書くようになっておいて、「海」に書いた「内宇宙からの抒情」はいわゆる純文学雑誌へのデビュー作となった。当時の純文学雑誌は松本清張や司馬遼太郎ですら受け入れないというほど閉鎖的な世界で、純文学系以外の作家が書くというのは全く驚異的なことだった。

■1972■
すでに新左翼の時代も終わり、NW−SFワークショップも将棋、囲碁、登山などの遊びが盛んとなっていた。編集長の山田和子さんに駒の動かし方を教えたところ、たちまち山野が負かされるようになり、わずか2年程度で日本将棋連盟の女流名人位を獲得してしまった。まだ蛸島さん、山下さんだけが女性棋士という時代で、現在の多くの女流プロたちをなぎ倒しての優勝だからすごい。私は日本棋院の囲碁雑誌で井上初段と星目対戦をしたが、最後の最後に時間に追われて生きを読みきれずに惜敗してしまった。登山は高尾−陣馬縦走から始まり、奥秩父、丹沢、八か岳、南北アルプスと発展しながら、全国各地の山々を登っている。この頃、「読売新聞」の書評担当を始める。当時は大手新聞の書評というと長老たちの仕事で、30歳そこそこの山野が書評を担当するというのも極めて珍しいことだった。書評担当のお蔭で「読売年鑑」の著名人名簿にも名前が掲載されるようになり、ライバルの「朝日年鑑」にも掲載された。おそらく最年少のVIPとなっていたのだろう。これによってアメックス・ゴールドカードを始め、さまざまなステータス・アイテムを獲得しており、折しもバブルの金余り現象から、全く付き合いのない会社からもさまざまな贈答品が届くようにもなった。最も凄かったのはある広告代理店から来た誕生日祝いのアルマニャックで、当時としては相当高価なものだった。

■1973■
この頃からフジテレビの競馬中継にゲストとして出演するようになった。寺山修司さん、古山高麗雄さん、三好徹さん、佐野洋さん、石川喬司さん、虫明亜呂無さんといった作家たちと馬券的中を競うような内容だったと思う。鳥居アナウンサーからは、特に山野浩一が人気あるといわれ、2、3年後にレギュラー出演を依頼されるが、毎日曜日は無理だというと、レギュラーゲストという待遇で月に1回休ませて下さることになった。これもテレビ番組では考えられないことだが、当時の山野にはそのような契約をしてくれた高島プロデューサーの有り難さもわかっていなかった。レギユラーになって間もなく、目黒記念のタイホウヒーロー、菊花賞のグリーングラスといった大穴を続けて本命に指名したのが恩返しといえば恩返しで、これが競馬ファンに与えたインパクトも大きかったようだ。この頃、山野浩一は髭を生やしていたが、ジュディス・メリルさんが「髭を生やせばマイクル・ムアコックそっくりね」といったのが始まりだった。ムアコックさんはニューウエーヴSFの砦となっている「ニューワールズ」誌の主催者で、ヒロイック・ファンタジーなどを書きまくることで雑誌経営の資金を稼いでいた。山野は競馬でお金を稼いで「季刊NW−SF」を出版しており、海外SF界にはジャパニーズ・ムアコックとして知られるようになった。そんな事情を知らない人は「女よけの髭ですか?」とか、「若く見られるのが嫌だからでしょう」というが、確かにまだ「学生さんですか?」といわれるほど若年に見られ、その後も現在に至までずっと、15歳位若く見られ続けている。

■1974■
この時代には作家としても、競馬評論家としてもすでにかなりの地位を得ていたが、作家としてはSF界でアウトサイダーと見られ、文学の世界ではSF作家とみられていたため、いずれでも重要な存在として扱われたわけではない。一方、競馬の世界ではすでに高度に専門的な仕事をしていたので、作家の山野浩一が同一人物と考えられなかったようだ。面白いことに新聞社、放送局、出版社などはそれぞに私をどれか一つの分野のみで認める傾向があり、例えば作家扱いの読売新聞で競馬評論家として原稿を書くことはなかったし、競馬評論家扱いのNHKでは競馬関係のみで出演し、早川書房ではSF作家として、他の文芸誌では前衛文学の評論家として扱われていた。「殺人者の空」「メシメリ街道」など、この時代に最も重要な作品群を書いていて、SFのニューウエーヴという分野からも離れた独自の作風を強くしていった。この頃の作品は対立する立場の人達にも称賛されている。

■1975■
離婚とともに髭を落とし、忙しく恋愛もするようにもなった。子供の頃からずっと痴漢、ナンパ、セクハラに悩まされ続けたため、ずっとセックスを嫌悪していて、それまでは恋愛にもほとんど興味がなかった。この頃、「GORO」という若者向けの総合エンターティメント雑誌で、エッシャーの絵に組み合わせたショートショートを連載したり、ジャズやロックの評論とか、ドキュメントや社会評論的なものも多く手掛け、仕事の範囲はやたらと広くなっていた。いま考えれば、この頃の多忙さは尋常ではなく、創作活動でも、評論活動でも、競馬関係でも、私生活でも、すべての面で専業並みの仕事を続けていたと思う。

■1976■
第3短編集で一時期の代表作となった「殺人者の空」が仮面社から刊行された。NW−SF社では単行本も手掛けるようになってJ・G・バラード「コンクリートの島」を出版した。「季刊NW−SF」や単行本の印刷は競馬ブック社に安価で引き受けていただき、取り次ぎ店では、たまたま担当者が山野作品の読者だったお蔭で簡単に口座を設けてもらうことができた。そのようにさまざまな幸運に恵まれてきたので、ずっと幸運が当たり前のように考えていたが、特に山野が実現したいと考えていることが、次々と目の前に現れてくるのはさすがに驚きだった。ある日サンリオの佐藤守彦編集長が尋ねてきて、SFの文庫本シリーズを刊行したいという。ああ、それなら出したいものは一杯あるといって、幾つかの作品の名を挙げると、数日後には版権がOKですという返事がきた。すぐに翻訳家を紹介してとりかかってもらったが、佐藤さんは週に1回くらいやってきて、新しい作品を届けてきた。新作のテスト刷りはむろんのこと、生原稿のコピーすらあった。バラード、レム、デイック、ル・グイン、、ディツシュ、オールディスといった新しい傾向のSF作家、そしてバージェス、バース、カルペンティエール、マルケス、バーセルミといった世界の前衛作家、それらを一つのシリーズにまとめて、新しい文学運動の核とするのは私の長年の夢だった。サンリオSF文庫は月に2、3冊のペースで発行したいという。それなら翻訳に平均1年かかるとして、すぐに50冊程度のタイトルを用意しなければならない。早川書房の独占的な市場だったSFを扱う以上、早川書房との対立関係は避けられないが、同時にSF界全体がSFを革命的に変えようとする動きに強い抵抗を示した。ここでまた、山野はSF界を敵として戦う立場に追い込まれていった。

■1977■
サンリオSF文庫の創刊記念としてブライアン・アッシュ編集の「SF百科図鑑」を出版することになり、山田和子、大和田始、野口幸夫、国領昭彦といったスタッフはNW−SF社に缶詰状態で大冊の翻訳に取り組んだ。完璧なものとするためにさまざまな資料を集めて、最強のインデックスを作成することで、ほぼ満足なものとして発行できたと思う。今もSFレビューの名著として知られており、山野浩一の重要な仕事の一つともなった。同時に世界SF史を学ぶ良い機会となり、後に平凡社の「世界大百科事典」のSF項目の執筆などには大いに役立った。サンリオSF文庫は前衛的な内容だけに、そうも爆発的な売れ行きを示したわけではないが、読書界からは強い支持を得て、今も幻の名シリーズとして古書店で高価で取引されており、日本文学に新しい息吹を吹き込むことに成功したと思う。売れ行きがさほどのものでなくても、何しろ版元が天下のサンリオで、サンリオの辻社長は芸術的な役割の高いものとして高く評価してくれていた。前衛文学界での考え方はさまざまで、例えば渋沢龍彦さんなどは強く支持して下さって、自分の著作でも新しい文学傾向としてJ・G・バラードを取り上げてくれたりしたが、比較的親しかった種村季弘さんなどは前衛文学の運動をぶち壊すものと考えていたように思う。工作社を設立して新しい文学、哲学、科学の運動を始めていた松岡正剛さんは「遊」という雑誌を発行していて、「季刊NW−SF」と相互に影響を与え合いながら日本文化の新しいムーヴメントを築いていくことができた。この年、競馬関係でも重要な著作「サラブレッド血統事典」を二見書房から出版した。最初はJRAの宇佐美恒夫さん、東京中日スポーツの石崎欣二さんが各馬の記録を作り、私が評論をするという形式だったが、改定を重ねていく間に宇佐美さんと石崎さんが相次いで亡くなられ、その後は吉沢穣治さんが記述部分を受け持つようになって、吉沢さんとの共著として定着していった。「サラブレッド血統事典」は競馬関係書としては空前絶後のベストセラーとなり、一頃は10万部近い発行部数に達した。

■1978■
2、3年前から「ユリイカ」誌との付き合いが多くなり、安部公房、大江健三郎、三島由紀夫といった日本文学の評論も多く書いている。安部公房さんは最初の短編集に推薦文を書いてくださったが、推薦文を絶対に書かない人として知られていて、私の本の次に書いたのはこの時期に出た大江さんの作品に対するものだった。「X電車で行こう」の推薦文は、後に安部さんが亡くなられてから出版された全集にも収録されている。安部さんに関する評論は何度も書いていて、いつか安部公房論としてまとまったものにしたかったのだが、ついに果たせずに終わっている。安部さんの方でも雑誌で安部公房特集などが組まれると、必ず私を執筆陣に指名してくれた。SF界とは疎遠になっていたが、半村良さん、筒井康隆さん、河野典生さんなど、私の活動を支持して下さっている人も少なくなかった。この頃だと思うが、筒井さん、河野さん、山下洋輔さんらと一晩中飲み明かし、その間に次々いろんな人と会ったり別れたりして、最後は戸川昌子さんの店で夜が明けたのを覚えている。山野はどちらかというとこういう付き合いをほとんどしない人間だったが、さまざまなたまり場に行くといろんな人がいて、みんなよく飲み歩いているものと驚かされた。「ユリイカ」の編集長だった小野好恵さんは冬樹社に移って、「カイエ」という全く新しいタイプの文芸雑誌を創刊した。ヨーロッパの文芸誌に近いもので、閉鎖的な日本の純文学の殻を破った画期的なものだった。私も「カイエ」には毎号のようにさまざまな原稿を書くようになり、12月号ではJ.G。バラード、ル・グインらの翻訳を含むSF特集が組まれた。また、私の第4短編集「ザ・クライム」も冬樹社から出版された。

■1979■
サンリオSF文庫で特に人気を獲得したのはフィリップ・K・ディックで、後に映画「ブレードランナー」によってSF界以外にも大きな話題を呼ぶようになった。ディックの作品に関しては全ての著作の版権を取り、20冊くらいの作品を刊行したが、サンリオSFの終結後も他の出版社からほとんどの著作が再刊されるている。フジテレビのレギユラーとして多くの人に顔を知られるようになっていて、山野浩一のポピユラー度は、この頃が最も高かったと思うが、本人にはそんな意識はなく、銀座四丁目のど真ん中で信号が変わって取り残されてしまい、全力疾走で服部時計店の前まで走り込むと、交差点にいた人々から拍手が巻き起こったのにはびっくりした。お巡りさんが「山野さん、信号をちゃんと見なければだめですよ」といったので周囲の人々は大笑い。有名人ってこういうものなのかと思った。それでも作家山野浩一と競馬評論家山野浩一が同一人物と知っている人は以外に少なく、有名人は競馬評論家として、社会的地位は作家としてうまく使い分けていたように思う。サンリオSF文庫のために洋書を次々と読破し、翻訳も手掛けるようになった。かつて英語の試験を白紙で提出していた山野浩一としては、考えられないほど英語ができるようになり、作品を英訳してくれたディヴィッド・ルイスさんなどとも主に英語で話すようにもなっている。

■1980■
この年に日本中央競馬会は「馬事振興研究会」という諮問委員会を発足させた。競馬会にとっては歴史的な委員会で、日本の馬を強くするのが目的だったが、実際には日本の競馬体制を洗いなおすものとしても大きな意味を持っていた。最初の会合で「日本の馬を強くするには、日本で国際レースを行うのが一番です」と発言すると、競馬会サイドでもそのように考えていた時期だったのだろう。委員会の進行を待たずに国際レースとしてジャパンCがスタートし、日本競馬の国際化の第一歩となった。当時は外国競馬の事情に通じた人がほとんどいなかったので、「優駿」「競馬ブック」などに招待馬の丹念な紹介を書き、ジャパンCシーズンになると資料調べや国際厩舎通いなど、極めて多忙な毎日となった。馬事振興研究会ではさまざまな競馬の分野の人々と知り合い、システムとしての競馬全体にかかわるようになっていったが、本格的な競馬評論家としての活動はこの頃からだったように思う。「競馬ブック」誌では大レース勝ち馬の生産牧場を紹介するようになり、これは日本の競馬界に馬産への関心を呼び起こし、私の著作でも特に人気のあるものとなっていた。フジテレビの競馬中継のレギュラー出演が終わったのもこの頃だったように思う。

to be continue...